河内木綿の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 04:43 UTC 版)
綿の作付けは江戸時代を通じて栄え、織布製品はいわゆる「河内木綿」とよばれた。しかし、製糸・織布については各農家の家内制手工業の域を脱せず、専門業者の企業としては成り立っていなかった。 明治維新以降、品質の良い外国産の綿が輸入されるようになり、さらに薩摩藩が堺で戎島紡績所を開設するなど機械紡績が普及しはじめたため、品質に劣る日本国内産の綿花や手紡製品は次第に駆逐されていった。 河内地区も例外ではなく、粗悪品の製造を行うものが現れて市場の信用を失うなどして、綿の作付けや河内木綿の製造は衰退していった。 山本においても少なからず影響を受けている。 綿畑は、大都市(大阪)近郊の野菜供給地となっていった。
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