民謡歌手への決意
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 09:24 UTC 版)
1914年、15歳になった森鈴は農業を続けながら民謡歌手になる決意をし、地元の芸能グループに参加して稽古をするようになった。三味線を得意とする鳥井与四郎(芸名を如月)を伴奏者として得る。また、内川村の芸人、二代目秋田五郎から漫芸を学んだ。 17歳になると、市で自然に覚えたものではなく、正しい追分節を習得しようと考え、五城目に根ざした芸能集団佐藤久太一座の民謡歌手沢石キサから指導を受けた。キサから習った追分節は、五城目で歌われていたもので、“田舎の追分”という意味の「在郷(じゃんご)追分」と呼ばれていた。節まわしは、歌の中で「あん、あん、ああん」と、無理だと思われるくらいにユリをきかせ、引きのばして歌うので、「あんあん節」などとも呼ばれていた。 1919(大正8)年、江差追分が流行すると、民謡一座が興行をかけることが多かった五城目町の芝居小屋「五城座」にもこれを売り物にする三浦為七郎一座がやってきて、その舞台で森鈴は飛び入りで江差追分を歌い上げ、拍手喝采を受けた。 1921(大正10)年になると江差追分の流行はさらに拍車がかかり、レコードもよく売れていた。この年に宮野カネ子一座が五城目町に来たときも森鈴は飛び入りで歌い、それがきっかけでこの一座に入り全国を巡業するようになった。
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