民主自由党時代(1990~1995)
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「新韓国党」の記事における「民主自由党時代(1990~1995)」の解説
盧泰愚大統領は民主党の金泳三、平和民主党(以下、平民党)の金大中、共和党の金鍾泌と個別会談(1990年1月11日~13日)を行った結果、金泳三と金鍾泌と党合同をすることに合意した。そして1990年1月22日に民正・民主・共和3党の合同を宣言、2月9日に合党大会を開催して民主自由党が正式に発足した。 「世界秩序の再編の中で、多くの国々が自己改革の本流の中に置かれて現実は、我々の政治が創造的改革によって新しく生まれ変わることを要求しており、清新な国民政党の登場こそこのような要求に呼応する道であることを固く信ずる」と宣言し、五項目からなる綱領を採択した。5月9日に全党大会を開催、総裁に盧泰愚、代表最高委員に金泳三を選出した。1992年の大統領選挙では、党内における主導権を確保した旧・民主党の金泳三代表最高委員を候補者として擁立し、民主党の金大中候補に200万票近くの大差をつけて当選することができた。しかし、結党当初から旧党派間での主導権争いが絶えず、忠清道を地盤とする金鍾泌は1995年2月に民自党を脱党して翌3月に自由民主連合(自民連)を結成した。前総裁でもある盧泰愚前大統領が秘密政治資金問題で逮捕されたことで悪化した党のイメージを刷新 するために、同年12月に党名を「新韓国党」へ改称した。
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