死地を求めて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 06:07 UTC 版)
寛永14年(1637年)島原の乱が起きると、「吾不幸にして廃侯に嬰り、汚名身を辱しむ、豈久しく生きて人間に在らんや、命を此役に殞し、耻を雪ぎ憤を解くの愈れるに如かず」と親しい者に言い残して幕府軍軍監で清厳の交友でもある石谷貞清に参陣を請うて、松倉勝家に属する。利厳ら家族には湯治を名目にして旅立ち、何も告げていなかったという。 12月27日、家人の安藤仁兵衛儀玄、武藤太左衛門儀信、草履取の彌蔵、槍持某を連れて着陣、1月1日大将格の板倉重昌が総攻撃を行うと清厳も先方軍として従って突撃した。 清厳は十文字槍を振るい、槍が傷むとこれを刀に替えるなど奮戦するが、板倉重昌が戦死すると軍が崩れ、清厳も鉄砲に当たり戦死した。安藤仁兵衛儀玄、武藤太左衛門儀信、草履取の彌蔵も清厳の後を追って討ち死にした。 清厳は24歳の若さであった。
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