死去・没後・マムリの言葉
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「ムールード・マムリ」の記事における「死去・没後・マムリの言葉」の解説
1989年2月25日23時頃、モロッコのウジダで行われた講演会からの帰途、アイン・デフラ県近くで故障して道路上に停車していたトラックを避けるために急ブレーキをかけたところ、後続のタクシーが追突。その勢いで車が大木に衝突し、死去した。享年71歳。故郷のアイト・イェンニ墓地に眠る。 1992年にベルベル文化復興運動によってムールード・マムリ賞が創設された。政治情勢の悪化によって中断されたが、2001年に再開された。アマジグ語文学作品に与えられる賞である。 マムリは常に少数派民族を支持した。カナリア諸島の解放運動に貢献し、カナリア諸島自治・独立運動(Movimiento por la Autodeterminación e Independencia del Archipiélago Canario)の結成につながった。カナリア諸島独立運動家のアントニオ・クビージョ(スペイン語版)には、「植民者は常に植民地の民族を愚昧化して支配するために、民族の歴史的記憶を消し去ろうとする … 歴史意識のない民族は民族ではない … 解放運動のために闘う知識人・政治家の義務は、人々に民族の歴史を教え、歴史意識を目覚めさせることである」と語っていた。 彼は人生を振り返って、「何の後悔もない」という。「別の生き方をしようとは思わなかった。…(ベルベル人は)民族の解放に向かっていると確信している。無知、先入見、無教養がこの自由な運動の妨げになることはあっても、やがては見せかけから真実を見分けることができるようになる。そして、後には文学だけが残る」と期待する。
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