歌橋憲一とは? わかりやすく解説

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歌橋憲一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/08 13:21 UTC 版)

歌橋 憲一(うたはし けんいち、1889年明治22年)5月1日 - 1984年昭和59年)10月10日)は、日本実業家[1][2]ニチバンの創業者として知られている[1][3]

経歴・人物

歌橋又三郎(洗礼名:アレクサンドル)の子として東京に生まれる[2]東京薬学専門学校(現在の東京薬科大学)卒業後[2]1910年(明治43年)父が開店した「薬局歌橋輔仁堂」を後継者として経営する[2]。後に独立し、1918年大正8年)にニチバンの前身である「歌橋製薬所」を設立した[1][2]

製薬所に勤務中、輸入品であったゴム型の絆創膏について学ぶ[2]。これまで負傷した際に用いた包帯に比べ粘着力が大きくなり[2]、父が完成させたチェコ出身のF・J・ピックの製造法を用いた独自のゴム型絆創膏の発明、研究に携わった[1][2]。歌橋が研究した成果は反響を及んだが[2]気温変動によりゴムが変質するといった問題が起こった[2]。これによって経営難に陥った[2]。しかし、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災による負傷者のために、大日本帝国陸軍が絆創膏を用いた事により、経営が回復した[2]。後にキャレンダーを用いた絆創膏も販売し始める[2]

第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)に24社を経営統合し[2]、社名を「日絆工業株式会社」を社名変更し同社の社長となる[2][3]。戦後には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)からの要請により[2]セロハンテープの製造を始め[1][2]、後に「セロテープ」という名の登録商標で販売し始めた[2][3]1961年(昭和36年)には「ニチバン株式会社」に再変更し[1][2]ボールペン等の文房具におけるに匹敵する売り上げを記録した[2]。没後は多磨霊園に葬られた[2]

栄典

家族

脚注

  1. ^ a b c d e f デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『歌橋憲一』- コトバンク
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 歌橋憲一 - ぷららブログ
  3. ^ a b c d e 20世紀日本人名事典(日外アソシエーツ)『歌橋 憲一』- コトバンク
  4. ^ a b c d 『人事興信録』データベース (第8版) - 名古屋大学

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