柴田敬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/15 21:33 UTC 版)
人物情報 | |
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生誕 |
1902年9月2日![]() |
死没 | 1986年5月22日 |
国籍 |
![]() |
出身校 | 京都帝国大学経済学部 |
学問 | |
研究分野 | 経済学(理論経済学) |
研究機関 |
京都帝国大学(現京都大学)![]() 山口大学 青山学院大学 |
指導教員 |
河上肇 ヨーゼフ・シュン・ペーター |
主な指導学生 | 杉原四郎 |
柴田 敬(しばた けい、1902年(明治35年)9月2日 - 1986年(昭和61年)5月22日)は、日本の経済学者。京都大学教授、山口大学教授、青山学院大学教授などを歴任。数理マルクス経済学の開拓者であり、マルクス、ベーム=バヴェルクへの理論的批判で知られる[1]。
経歴
福岡県福岡市生まれ。福岡商業学校、山口高等商業学校(現山口大学経済学部)を卒業後、高商時代の恩師である作田荘一を追うように京都帝国大学経済学部に入学した。そこでは、河上肇のゼミに参加し、マルクス経済学を学び、先輩の高田保馬からローザンヌ学派を学ぶ[2]。
柴田はマルクス経済学とレオン・ワルラスの一般均衡理論の統合など世界的にも注目される理論経済学の研究を行った[3]。この論文はポーランドの経済学者であるオスカル・ランゲの眼に止まり、高い評価を受けている[4]。
柴田は、京都帝国大学の助教授をしていた1936年に、ハーバード大学に留学している[2]。そして、そこでヨーゼフ・シュンペーターのゼミナールに加わり、高い評価を得ている。伊東光晴によると、「日本の経済学者でシュンペーターのもとを訪れた者のうち、シュンペーター自身が、来る前から異常に高く評価したのは柴田敬であり、来た後に高く評価したのが都留重人であって、これ以外の人についてはほとんど評価していない」とされている[5]。また、当時のゼミ生には、ポール・サミュエルソン、ワシリー・レオンチェフ、ポール・スウィージー、都留らがいた。そして、帰途には、吉田茂の仲介により、英国でケインズとの面会を果たした。伊東光晴によれば、「日本人としては、ただ一人ケインズと議論らしい議論を行った経済学者」。帰国後の1939年、京都帝大教授となる[2]。ゼミで杉原四郎らを教えた。
その後、経済ブレインとして、近衛文麿の経済体制革新運動や天皇による早期終戦工作等に関わるようになったが、戦後になるとGHQにより公職追放となる。1951年に追放解除後、山口大学教授・経済学部長(-1963)、青山学院大学教授・経済学部長も務めた(-1976)[2]。
利潤率
柴田敬は、昭和10年(1935年)の主著「理論経済学」において、「生産係数の変化は、それが、生産費の節減をもたらすものである限り、資本組成の有機的高級化を伴う場合にも、平均利潤率の上昇をもたらす」、すなわち、資本家が生産費、生産物価格を低下させるような新技術を導入する限り、平均利潤率は必ず上昇するとして、マルクスの利潤率の傾向的低下の法則を批判した[6][2][3]。これは置塩信雄によって一般化され、シバタ・オキシオの定理と称される[3]。
リカードは土地の有限性によって利潤率が低下するとみたが。マルクスは資本の有機的構成の高まりによって利潤率が低下するとみた[3]。いま不変資本をC 、可変資本をV 、剰余価値をSとすれば、利潤率r は、
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