枇杷男忌や色もて余しゐる桃も
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秋 |
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評 言 |
自らの死後の景を、生者である枇杷男自身が豪胆かつナルシスティックに描いてみせた一句。作者はこの二律背反、アンビバレンスを創出し、存分に賞味している。後段の、色をもて余すほど爛熟した桃は、自らの残像でもあろう。永田耕衣ほど枯れきってはいないし、単に滅びゆくものというのでもない。命の横溢は埋み火の如く残っているし、曰く言い難い命の切なさを生死一如の雲間から鳥瞰している。 三鬼の「中年や遠くみのれる夜の桃」を意識していることは、容易に想像できる。遠隔操作したエロティシズムである三鬼の「中年の桃」に対して、枇杷男はもっと直截的に「老年の桃」を提示した。老年たるものの範を示したかったと言うべきか。 死との交感ということでは、『古事記』の黄泉比良坂以来、日本文学には題材に事欠かない。『日本霊異記』しかり、『今昔物語集』、『扶桑略記』しかりで、仏教の喧伝を兼ねているとは言え、いずれも臨死体験に満ちたものとなっている。しかし、この延長上で枇杷男を語ることは徒労であろう。 枇杷男の句を読むと、至るところに死が満ちている。死が枇杷男を食い尽していると言ってもいい。鬱蒼とした真葛原には死者の声の入った箱が置かれ、その箱の中には菜の花が灯り、底の方では石の舌が蠢いている。或いは、発狂する扉の向うには蟲の形をした闇が哭き、死臭を放つ柱に蝶が止っている。謂わば人間と自然、此岸と彼岸、虚と実が入れ子構造になっており、いつでも交換可能な状態に、一つの切り口は別の側面を映す鏡になって循環しているのである。 |
評 者 |
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備 考 |
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