松阪での成功と東京進出(1888-1950)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 19:07 UTC 版)
「和田金」の記事における「松阪での成功と東京進出(1888-1950)」の解説
1888年(明治21年)に中町へ移転した。翌1889年(明治22年)には当時1頭12 - 15円が相場であったウシを20円で買い取り、町の人をあっと驚かせた。和田金の前には20円もするウシを一目見ようと人だかりができ、その見物客に金兵衛は酒を振る舞ったことで松阪の街で話題をさらったという。この頃に「良い肉しか売らない」という基本方針が定まり、良質のウシを肥育すれば和田金が買ってくれると、松阪近隣では肥育技術を向上させる農家が増加した。金兵衛の商売は順調に推移したが、それを支えたのは妻のみねであった。みねは1921年(大正10年)に中央畜産会が開いた畜産博覧会では唯一の女性として肉牛評価委員に任じられたほどの確かな肉牛を見極める目を持っていたという。1921年(大正10年)、店名に添えて「松阪肉元祖」を掲げ始めた。 1927年(昭和2年)、3代目の松田茂の下で東京・京橋に東京支店を出店した。東京進出には時の農林省が畜産奨励のために積極的に関与したといい、三重県庁も協力した。1929年(昭和4年)には内閣総理大臣・田中義一や主要閣僚が和田金の牛肉の「試食会」を開いた。1935年(昭和10年)には全国肉用畜産博覧会で最高の名誉賞を受賞した雌牛「みち」を競り落とした。その後太平洋戦争の激化により東京支店は牛肉の配給機関となり、和田金の配給切符は高値で取引されたという。
※この「松阪での成功と東京進出(1888-1950)」の解説は、「和田金」の解説の一部です。
「松阪での成功と東京進出(1888-1950)」を含む「和田金」の記事については、「和田金」の概要を参照ください。
- 松阪での成功と東京進出のページへのリンク