松田憲秀(まつだ のりひで) ????~1590
松田憲秀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/25 05:43 UTC 版)
松田 憲秀(まつだ のりひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏の家臣。
- ^ [1]『小田原北条氏重臣・松田憲秀のこと』P.51
- ^ [2]
- ^ 一部の系図には盛秀の弟・康定(頼貞)と記されている[3]。
- ^ 実父は笠原光貞、政晴はその次男・笠原新六郎常克と同一人物とする説では憲秀の養子となったが、憲秀の実子・直秀が誕生したのでその跡を継げなかったとしている。[4] 松田家の歴史 P.84。
- ^ 北条氏直より偏諱を賜う、諱は直定・秀治とも、後に憲秀の一字を受け憲定に改名。
- ^ 弾三郎。小田原開城後は兄直秀と共に氏直公のお供をし、紀伊国高野山に同行した。初め加賀前田氏に仕えたが、医師となり、金沢で開業。子孫はその後氷見を経て高岡に転居し、町医となり、代々名医として江戸時代を過ごした。安永8年(1779)加賀藩主前田政斎の嗣子:数千代の眼疾を治療して松田眼科の声価を高めた。子孫は現在も高岡市に居住し、活躍している。家紋は丸に二引きを使用している。
- ^ 内藤綱秀の子。
- ^ 主に千葉氏重臣・原胤栄や里見氏重臣・正木氏との書状が多く残る。
- ^ 一説で政晴は武田家滅亡の際に戸倉城が攻め落とされた後、北条氏政に許されて出家して僧・蔵六坊正厳和尚になり、静岡県三島市の蔵六寺を開山したが、当寺の創建は、天文2年(1533)に土地の土豪であった後藤石見守が正厳和尚を招いて開山したと伝えられるので、政晴の経歴と年代的に合わない。 また同じ三島市の法華寺に、笠原政尭は笠原隼人佐とも言われ、寛永3年(1626年)60歳で病没したと言い伝えられている。だがこの説で没年から逆算すると生年は永禄9年(1566年)となり、天正3年(1575年)に笠原家の跡継ぎである千松が幼少であったために、笠原氏と伊豆郡代の地位を継いだことにしてもまだ幼い9歳の頃で、矛盾がある。墓は三島市東本町1丁目の法華寺にある。その墓の表には「笠原院春山宗永居士」と刻し、その裏面に「笠原助之進延宝七年(1679年)霜月六日建」とある。
松田憲秀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 00:39 UTC 版)
北条早雲以来股肱閥閲の名家で、柩機にあずかり勢威をふるっていたが、主家・北条を裏切り、秀吉側の軍を城内に引き入れる手筈を整えたが、陰謀が漏れて失敗。
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松田憲秀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 03:08 UTC 版)
原作では名前のみの登場。秀吉との戦いのとき篭城策を提案した。その後秀吉方に寝返ろうとした。ガマガエルのような風貌をしている。
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