東洋医学との融合-伊良子流外科の確立
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その後、道牛は長崎で学んだ西洋医学と、日本に古来より伝わる東洋医学の長所を巧く融合させ、和洋折衷の独自の外科学を確立させる。 元禄14年(1701年)、山城国紀伊郡伏見(現在の京都市伏見区)に移住した道牛はこの地で開業したが、漢方・蘭方ともに適切な処方をしたその治療に名声が集まり、洛中洛外を始め近隣の諸国からも患者が集まったといわれている。 享保19年(1734年)1月12日(旧暦)、病を得ていた道牛は64歳でこの世を去る。墓は伏見桃山仙石谷の竜泉寺に建てられ、生前交友のあった伊藤東涯の撰文による墓碑銘が彫られていたが、明治時代に奈良鉄道敷設に伴って廃却され、現存しない。 昭和3年(1928年)、正五位を追贈された。
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