東周君とは? わかりやすく解説

昭文君

(東周君 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 17:57 UTC 版)

昭文君(しょうぶんくん、生没年不詳)は、東周の君主。一説に王として即位したと伝わり、は姫では傑というため「君傑」とも伝わる。

史記』や『戦国策』などの信頼できる史料に諱の記載がなく、後世の家譜による伝承にすぎないなど、諸説がある。

それによると、西周桓公中国語版貞定王の末子)の曾孫と伝わり、祖父は西周の威公中国語版で、父は東周の恵公中国語版と伝わる。東周の恵公はその兄の西周の恵公中国語版と争った。後に宗家の赧王の生前に東周公となった。

昭文君の存在は諸説があり、父とされる東周の恵公と同一人物とする説、天子として即位して恵王を称したとする説、東周の最後の君主文君であったとする説、兄とされる東周の武君と同一人物とする説、東周の靖公と同一人物とする説などがある。

赧王の死後も、昭文君の東周公位あるいは周王位は7年間存続した。周の王権の象徴である九鼎はかれの手中にあり、ある程度の君主権を確立していたとは推定される。ただし九鼎は赧王の死をもってに奪われたとする見解もある。

赧王の死後、昭文君はの力を借りて六国の諸侯を連合させ、秦を討伐しようとしたが失敗し、その統治する地域は秦に奪われた。昭文君は呂不韋により殺害されたとも、陽人聚に遷されて周宗室の祭祀を継承したとも伝えられている。


東周君(とうしゅうくん)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 00:42 UTC 版)

達人伝-9万里を風に乗り-」の記事における「東周君(とうしゅうくん)」の解説

周の再起期し孝文王薨去喪に服す秦へ韓と合従して攻め込むも秦が軍を出したことに動揺し一戦もせず撤退する先行した王齮の軍に洛陽占拠され虜囚となり、蒙驁宣言により生き恥晒して生き続けることとなった

※この「東周君(とうしゅうくん)」の解説は、「達人伝-9万里を風に乗り-」の解説の一部です。
「東周君(とうしゅうくん)」を含む「達人伝-9万里を風に乗り-」の記事については、「達人伝-9万里を風に乗り-」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「東周君」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「東周君」の関連用語

東周君のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



東周君のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの昭文君 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの達人伝-9万里を風に乗り- (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS