昭文君
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昭文君(しょうぶんくん、生没年不詳)は、東周の君主。一説に周王として即位したと伝わり、姓は姫で諱は傑というため「君傑」とも伝わる。
『史記』や『戦国策』などの信頼できる史料に諱の記載がなく、後世の家譜による伝承にすぎないなど、諸説がある。
それによると、西周の桓公(貞定王の末子)の曾孫と伝わり、祖父は西周の威公で、父は東周の恵公と伝わる。東周の恵公はその兄の西周の恵公と争った。後に宗家の赧王の生前に東周公となった。
昭文君の存在は諸説があり、父とされる東周の恵公と同一人物とする説、天子として即位して恵王を称したとする説、東周の最後の君主文君であったとする説、兄とされる東周の武君と同一人物とする説、東周の靖公と同一人物とする説などがある。
赧王の死後も、昭文君の東周公位あるいは周王位は7年間存続した。周の王権の象徴である九鼎はかれの手中にあり、ある程度の君主権を確立していたとは推定される。ただし九鼎は赧王の死をもって秦に奪われたとする見解もある。
赧王の死後、昭文君は楚の力を借りて六国の諸侯を連合させ、秦を討伐しようとしたが失敗し、その統治する地域は秦に奪われた。昭文君は呂不韋により殺害されたとも、陽人聚に遷されて周宗室の祭祀を継承したとも伝えられている。
東周君(とうしゅうくん)
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「達人伝-9万里を風に乗り-」の記事における「東周君(とうしゅうくん)」の解説
周の再起を期し、孝文王が薨去し喪に服す秦へ韓と合従して攻め込むも秦が軍を出したことに動揺し、一戦もせず撤退するも先行した王齮の軍に洛陽を占拠され虜囚となり、蒙驁の宣言により生き恥を晒して生き続けることとなった。
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