東京相撲時代
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「劔山谷右エ門 (2代)」の記事における「東京相撲時代」の解説
1883年(明治16年)梅ヶ谷の門下となり5月場所「東客席」(三役格)で出場。1884年(明治17年)1月東小結となり下の名を江戸の名大関と同じ谷右エ門と改名。1885年(明治18年)5月関脇、1886年(明治19年)1月引退した梅ヶ谷に替わり大関に昇進した。1890年(明治23年)5月、西ノ海が初めて番付に横綱と書かれた場所劔山は西に張り出され「張出大関」となった。1891年(明治24年)1月からは地位表示なしの「張出」となり、これについては「大関格」「三役格」の二説がある。1892年(明治25年)6月限り引退。年寄武蔵川となった。勝負検査役などを務め、1910年11月、58歳で死去。肩幅広く胸板厚く左を差しての寄りは大関相撲と讃えられた。
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東京相撲時代
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初め東京相撲の出羽海部屋に入門し碇野 一と名乗って1911年(明治44年)6月序ノ口についた。1914年(大正3年)1月場所前に廃業。
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