東の渋沢、西の小山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 02:31 UTC 版)
福沢諭吉の養子であり「日本の電力王」と呼ばれた福沢桃介は、「東に渋沢栄一、西に小山健三あり、東西における金融界の大御所として(中略)時の政府が公債を募集するとか金融界の大問題を解決するとかいうような場合には、大蔵大臣は必ずこの両大御所の意見を徴するのが例だった」とその著書「財界人物我観」に書いている。 第一次世界大戦末期に、英国、フランス、ロシアの3国が日本で円貨公債を発行した際に東西の各銀行が引き受けたが、小山頭取は「ロシア政府の分に限り、日本政府の保証を付けない限り引き受けない」と強硬に主張し、これを認めさせた。その後、ロシア革命が起こり、革命政府は帝政ロシア時代の債務の支払を拒否したが、日本の銀行は日本政府から償還を受けて株主や預金者に迷惑をかけずに済んだというエピソードを、大島堅造はその著書「一銀行家の回想」で語っている。
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