本太城、高屋城、高槻城の戦い
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「篠原長房」の記事における「本太城、高屋城、高槻城の戦い」の解説
長房は四国において元亀元年(1570年)に娘を安富盛定に嫁がせており、元亀2年(1571年)前半頃に寒川元隣から大内郡4郷を安富盛定に譲渡させて讃岐東部での地盤を強化している。同年5月には、信長と結ぶ毛利氏の圧迫を受けていた浦上宗景の求めに応じ備前国児島に上陸、小早川隆景の配下粟屋就方の兵を破っている(本太城合戦)。 同年6月11日には、長房の率いる阿波・讃岐の軍勢は畿内に再上陸しており、河内高屋城主・畠山昭高(信長の妹婿)を攻めており、8月末には摂津の荒木村重と池田知正が義昭方の茨木重朝、摂津三守護の伊丹親興、同じく和田惟政を攻め、重朝と惟政を討ち取っている。勢いに乗った池田勢は茨木城、郡山城を攻め落とし、惟政の子和田惟長の籠る高槻城を攻囲した。これに松永久秀・久通父子、三好義継が攻囲軍に加わり、『フロイス日本史』によると、高槻城の城下町を2日2晩かけてすべて焼き払い破壊したとされる。信長は9月9日に佐久間信盛を、義昭は9月24日に明智光秀を講和の為に派遣し、村重らは兵を引き上げている(白井河原の戦い)。 『姿なき阿波古城』によると、長房は「三好家中の中でも長房はもっとも堅実で、しかも軍事・政治の両面に通じていたので、ときにはそれが諸臣たちのあいだで妬みをうけるほどの才能があった」と評価されている。
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