本太城、高屋城、高槻城の戦いとは? わかりやすく解説

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本太城、高屋城、高槻城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:26 UTC 版)

篠原長房」の記事における「本太城、高屋城、高槻城の戦い」の解説

長房は四国において元亀元年1570年)に娘を安富盛定に嫁がせており、元亀2年1571年前半頃に寒川元隣から大内郡4郷を安富盛定譲渡させて讃岐東部での地盤強化している。同年5月には、信長と結ぶ毛利氏圧迫受けていた浦上宗景求め応じ備前国児島上陸小早川隆景配下粟屋就方の兵を破っている(本太城合戦)。 同年6月11日には、長房の率い阿波讃岐軍勢畿内再上陸しており、河内高屋城主・畠山昭高信長妹婿)を攻めており、8月末には摂津荒木村重池田知正義昭方の茨木重朝、摂津三守護伊丹親興同じく和田惟政攻め、重朝と惟政討ち取っている。勢い乗った池田勢は茨木城郡山城攻め落とし惟政の子和田惟長籠る高槻城攻囲した。これに松永久秀久通父子三好義継攻囲軍に加わり、『フロイス日本史』によると、高槻城城下町2日2晩かけてすべて焼き払い破壊したとされる信長9月9日佐久間信盛を、義昭9月24日明智光秀講和為に派遣し重らは兵を引き上げている(白井河原の戦い)。 『姿なき阿波古城』によると、長房は「三好家中の中でも長房はもっとも堅実で、しかも軍事政治両面通じていたので、ときにはそれが諸臣たちのあいだで妬みをうけるほどの才能があった」と評価されている。

※この「本太城、高屋城、高槻城の戦い」の解説は、「篠原長房」の解説の一部です。
「本太城、高屋城、高槻城の戦い」を含む「篠原長房」の記事については、「篠原長房」の概要を参照ください。

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