木材業者に対する攻撃
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「レッドクラウド戦争」の記事における「木材業者に対する攻撃」の解説
1866年11月、ララミー砦の第18歩兵連隊本部からフィル・カーニー砦にウィリアム・J・フェッターマン大尉とジェイムズ・パウェル大尉が到着し、このころ任務が明けた士官数人と交代した。カーリントンとは異なり、フェッターマンは南北戦争の間に相当な戦闘経験があったが、インディアンと戦ったことは無かった。フェッターマンはカーリントンの戦略に同意できなかった。それが「消極的」と考え、「80名」あれば、「スー族を従わせてみせる」と豪語した。 12月6日、第2騎兵隊C中隊を指揮していたホレス・S・ビンガム少尉が、材木伐採隊を攻撃しロッジ道の尾根を逃亡したインディアン部隊を追っているときに戦死した。カーリントンはその士官達がインディアンの囮部隊を盲目的に追いかける性癖があることを心配していた。フェッターマンは、プラット方面軍指揮官フィリップ・セントジョージ・クック将軍から攻撃的な冬季作戦を行うよう命令があったことに照らして、カーリントンの指導力の無さと考えるものにさらに怒りを増した。 1866年12月21日、午前11時頃に木材伐採隊が再度攻撃された。救援隊は第18歩兵連隊の49名の歩兵と第2騎兵隊の27名の騎兵であり、木材伐採隊を救い出すよう命令された。2日前にも同じような任務に就き尾根を超えての追跡を諦めていたジェイムズ・パウエル大尉が、カーリントンの報告書に拠ればこの部隊を指揮するよう指示されたが、フェッターマンは「名誉少佐のパウエルに対して名誉中佐の自分は上官である」と主張し、救援隊の指揮を譲り受けることを求め、受け継いだ。パウエルは後方に残った。第18歩兵連隊のもう1人の士官でカーリントンの批判者だったジョージ・W・グラモンド中尉が、ビンガム少尉の死後空席になっていた騎兵隊指揮官になった。 カーリントン大佐はフェッターマンに、砦からの救援が困難なロッジ道の尾根を越えないよう命令したとも述べている。フェッターマンの下には、その頃まで基地の補給係将校でありやはりカーリントン批判者だったフレデリック・ブラウン大尉も加わった。カーリントンはグラモンドに(騎兵は歩兵隊に付いていく前に乗馬を引き出しておく必要があった)、フェッターマンにはロッジ道の頂を超えるなという命令を思い出させるよう告げた、とも述べている。救援隊は総勢79名の士官と兵卒だった。ジェイムズ・ホイートリーとアイザック・フィッシャーという2人の文民がフェッターマン隊に加わり、全部で81名になった。フェッターマンは、木材伐採隊を救出するために森の中の道を行軍する代わりに、まず北に向かいサリバントヒルズを超えてロッジ道の尾根に向かった。
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