朝鮮半島経由の理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)
「文禄・慶長の役」の記事における「朝鮮半島経由の理由」の解説
秀吉が唐国平定計画を目指しながら直接に明に向かわず、その第一歩として当初より朝鮮に圧力をかけ、帰服か軍の通過を許すかの選択を強要しようとした理由の一つとして、日本の航法が江戸時代になってからも「地乗り航法(沿岸航法)」であったことが説明として挙げられる。「山あて」と呼ばれる周囲の景色の重なり具合から自分の位置を知る方法が主流であったため、船団が沿岸を目視できる範囲から離れることは危険で、濫りに大洋を横断することはできなかった。このため日本水軍は、九州北部の肥前名護屋(現唐津市と玄海町)などから出航して、壱岐(勝本)→対馬南部(厳原)→対馬北部(大浦)→釜山と順次進んで海峡を横断し、朝鮮半島南部沿岸を西回りで北上する必要があったのである。最短ルートから外れた済州島は無視された。
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