月光が釘ざらざらと吐き出しぬ
作 者 |
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季 語 |
月 |
季 節 |
秋 |
出 典 |
鏡騒 |
前 書 |
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評 言 |
第六句集『鏡騷』(2010)より引いた。 2011年12月の皆既月食は、ほんとうに幻想的で美しかった。きれいな満月が、少しずつ欠けていく。月の光がいつもの白っぽい色からオレンジ色に変わり、光が消えていったん深い赤だけになる。日頃見ている月の光に戻るまで、だいたい4時間ぐらいだったか。当日はえらく寒かったが、だからこその冴え方だったように思った。 月の光は釘を吐き出したりはしない。だから、釘を月の光とその金属感に対する暗喩と読むのがふつうなのかもしれない。もしくは、月光の下、釘箱から釘がこぼれたと読むのかもしれない。 私はそうではないように思う。ここに書いてある通り、月光がほんとうに釘を吐き出したのだ。そのように見えた、ということでもいい。この句における釘は、質感として確かに私のなかに存在していると思えるからだ。 この句を読んだとき、使いこまれた丸釘を想像した。だいたい5センチくらいの長さの釘が、闇をなめるように落ちていく姿も想像した。 音が立つくらいの本数の釘を感じたのは、韻律に依るものだ。月光という清らかさに対する中七以降の濁音と最後の一音で、釘自体がもつ生活に密着した深みを表している。 月の表面をよく見ると、所々で色が違う。「うさぎの餅つき」の黒っぽい部分は、巨大な隕石がぶつかったあとの「海」とよばれる低地だそうだ。月の表面の色の違いがあることで、月という天体を物質として実感できるのではないだろうか。 物質に光が当たるとかならず影ができる。私の影は常に私とともにある。月は太陽に照らされて光るが、ふだんは影は見えない。 ここで吐き出される釘は、もしかしたら月光とともに存在する影そのものなのかもしれない。 たぶん、それはざらざらとした釘でなければならない。月食の月を思い出すと、そんなふうに思う。 ちなみに、第五句集の『夜さり』(2004)には〈月光がくる釘箱をたづさへて〉という句がある。 |
評 者 |
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備 考 |
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