替え歌が作られる経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 01:42 UTC 版)
古く著作権の意識がなかった頃には、替え歌は当たり前のものであり、むしろ民謡は個々人が変えて歌うのが当たり前であった面もある。現在でもたとえば八重山民謡のトバラーマ大会では出場者はそれぞれ自前の歌詞を歌う。 軍歌「小楠公」が歌詞を置き換えて寮歌や労働歌になったのもこの感覚が残っていた時代のことで、作詞者が陸軍や労働組合に抗議したという話は残っていない。また、この頃の歌には七五調四連のいわゆる今様の形式に則った定型詩を歌詞とする例が多かったのも、替え歌を容易くしていた。 軍歌「小楠公」のメロディを流用した歌は、例えば以下のようなものがある。「アムール川の流血や」(塩田環 作詞 明治34年頃)アムール川の流血や、氷りて恨み結びけん… 「歩兵の本領」(加藤明勝 作詞):万朶(ばんだ)の桜か襟の色、花は吉野に嵐吹く… 「ホーヘルリンデン夜襲」(山蔭樵夫 作詞):日は早や西の入相(いりあい)の… 「征露の歌」(青木得三 作詞):ウラルの彼方風荒れて… 「メーデー歌」:聞け万国の労働者…
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