暖簾分け店
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 01:30 UTC 版)
本家木屋からは奉公人が次々と暖簾分けを遂げ、日本橋室町には木屋と号する多業種の商店が立ち並んだ。江戸初期には木屋九兵衛と共に庄兵衛の名も見える。 文政7年(1824年)発行の『江戸買物独案内』には、木屋九兵衛(塗物・下リ蝋燭・小間物諸色問屋)・木屋市兵衛(草履問屋)・木屋伊助(打物・小間物問屋)木屋久右衛門(小間物問屋)と、室町二丁目に位置し木屋を号する問屋4店が掲載されている。これら4店舗は文化2年(1805年)の『熈代勝覧』に並んで描かれており、当時の様子を今に伝えている。 安政2年(1855年)には岡野勘兵衛が琴三味線を扱う分店を開き、明治後には和漢洋の楽器や銘木・象牙にも手を広げた。4代目九兵衛が番頭勘六に本店を譲り、福六と号して薬種問屋を開いている。人参竜眼肉円の発売元となっていた。 明治の時点では、室町二丁目には12番地から10番地にかけて南から林福六(薬種)・林九兵衛(漆器)・鈴木久右衛門(荒物)・鈴木春吉(金物・加藤伊助(打物砥石)・岡野勘兵衛(唐木小間物)と本店1店及び暖簾分け5店が並び、これらは「五木屋」と呼ばれた。 しかし、これら木屋各店の多くは戦後までは生き長らえず、昭和30年頃木屋本店が暖簾を下ろし、木屋伊助店のみが木屋の名を残すこととなった。
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