時忠と良弁の素性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 05:23 UTC 版)
「大山寺縁起 (相模国)」の記事における「時忠と良弁の素性」の解説
「大郎大夫時忠」と、その子「良弁」の素性については、相模国説、近江国説、折衷説(相模国誕生・近江国移住)の諸説がある。俗姓についても、漆部氏説、百済氏説、百済系渡来人説等の諸説がある。 真名本や『東大寺縁起絵巻』(建武4年(1337年))や『東大寺要録』の記載を併せて考えると、時忠と良弁は相模国の漆部氏と関係が深く、相模国鎌倉郡由井郷か大住郡漆窪のどちらかが出自である可能性が高いとされる。そして、良弁と大山の関係、俗姓と地形や地名、大山との距離、古墳の分布等から、大住郡漆窪(現・神奈川県秦野市北矢名付近。字に「漆窪」や「大夫久保」がある)が出自である可能性がより高いとされる。 そして、時忠、つまり「漆屋(染屋、染谷とする説もある)太郎大夫時忠」は、「漆部直伊波」に比定することができると指摘されている。『続日本紀』神護景雲2年(768年)2月戊寅条には、藤原仲麻呂の乱(764年)で功績があった者として、伊波が政府から「大夫」と称されるに匹敵する位階を受け、相模国の「国造」となったとの記載がある。この「国造」は「律令国造」または「令制国造」といわれるもので、一国に一名任命され、祭祀に従事することが多かったとされる。なお、伊波の姓は大和朝廷と関連のある「直」であるため、旧相武国造の系列の豪族である可能性が指摘されている。
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