時忠の母について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 13:53 UTC 版)
『公卿補任』の時忠の項に母の記載はなく、弟・親宗の項に「母同時忠卿」とある。『尊卑分脈』の時忠の項にも母の記載はなく、親宗の項に「母大膳大夫藤家範女」とある。親宗の隣にある時子の項には「母同」と記されている。 『尊卑分脈』の藤原道隆流・藤原家範女の項には「美福門院女房少将局平親宗母」とある。ところが藤原基隆(家範の子)女の項にも、同じく「美福門院女房少将局平親宗母」という記述がある。一方、勧修寺流・能円(藤原顕憲の子)の項には、「母官女二条大宮半物大納言時忠并従二位時子同母」と記されている。このように『公卿補任』『尊卑分脈』の各記事には、混乱と矛盾が見られる。 まず、親宗の母「美福門院女房少将局」が家範の娘と基隆の娘のどちらであるか、という問題がある。これについては、家範(1048年生まれ)の娘が美福門院(1117年生まれ)に女房として仕え、親宗(1144年生まれ)を産んだとするのは年代的に合わないため、基隆(1075年生まれ)の娘とするのが妥当と思われる。 次に、能円の母「官女二条大宮半物」が親宗の母・藤原基隆女と同一人物であるか、という問題がある。半物は女房と雑仕女の中間の身分と推測されるので、公卿になった基隆の娘が半物であったとは考えにくい。また、時忠・時子と親宗の母が同じだとすると、基隆女の項に親宗の名だけが記され、時忠・時子の名が欠けていることが不審といえる。時忠・時子と親宗の年齢差も大きく、母は別人である可能性が高い。
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