旧天坪村の山﨑家とは? わかりやすく解説

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旧天坪村の山﨑家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 02:33 UTC 版)

山崎山重」の記事における「旧天坪村の山﨑家」の解説

現在の香美市土佐山田町の天坪や繁藤などはかつて天坪村であった。この村内山﨑氏が数件あると『天坪村史』(1951年)は記録している。以下は同書依拠し記述である。山﨑家は馬瀬一軒角茂谷一軒戸手野二軒、河之川及び追廻六軒谷に八軒繁藤二軒ある。馬瀬山﨑家は170年前に西岡家野市より山﨑熊吉婿入りし、姓を山﨑名乗り始めた。そのため血統西岡である。繁藤二軒のうち、一軒はもともと小笠原称していたが、明治初年高知市士族山﨑家の姓を譲り受け以後山﨑名乗るようになったため物部山﨑家とは別系統である。もう一軒大正期前後高知市より移住してきたものであるが、もとは片地出身であり、物部山﨑家の子孫である。角茂谷戸手野はともに兄弟であり、佐古村逆川より角茂谷来て昭和初めに戸手野分かれた。このことから物部山﨑家の子孫である。河之川と追廻谷の山﨑家は物部山﨑家より分かれたのである。なお、繁藤徳岡家も物部山﨑家の子孫である。玄蕃丞盛高の曾孫である九郎右衛門が甫喜山郷東川において荒地申し受け開墾し郷士職を許された。九郎右衛門甫喜山山﨑家始まりである。彼には五子があった。長男源六二男勘介三男馬之介、娘二人であった。その後子孫が河之川や追廻広がった。河之川・追廻山﨑家の家紋丸に桔梗谷山﨑家の家紋丸に三菱である。

※この「旧天坪村の山﨑家」の解説は、「山崎山重」の解説の一部です。
「旧天坪村の山﨑家」を含む「山崎山重」の記事については、「山崎山重」の概要を参照ください。

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