旧天坪村の山﨑家
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現在の香美市土佐山田町の天坪や繁藤などはかつて天坪村であった。この村内に山﨑氏が数件あると『天坪村史』(1951年)は記録している。以下は同書に依拠した記述である。山﨑家は馬瀬に一軒、角茂谷に一軒、戸手野に二軒、河之川及び追廻に六軒、樫谷に八軒、繁藤に二軒ある。馬瀬山﨑家は170年前に西岡家に野市より山﨑熊吉が婿入りし、姓を山﨑と名乗り始めた。そのため血統は西岡である。繁藤の二軒のうち、一軒はもともと小笠原を称していたが、明治初年に高知市の士族山﨑家の姓を譲り受け、以後山﨑を名乗るようになったため物部山﨑家とは別系統である。もう一軒は大正期前後に高知市より移住してきたものであるが、もとは片地の出身であり、物部山﨑家の子孫である。角茂谷と戸手野はともに兄弟であり、佐古村逆川より角茂谷に来て、昭和初めに戸手野に分かれた。このことから物部山﨑家の子孫である。河之川と追廻、樫谷の山﨑家は物部山﨑家より分かれたものである。なお、繁藤の徳岡家も物部山﨑家の子孫である。玄蕃丞盛高の曾孫である九郎右衛門が甫喜山郷東川において荒地を申し受けて開墾し、郷士職を許された。九郎右衛門は甫喜山山﨑家の始まりである。彼には五子があった。長男源六、二男勘介、三男馬之介、娘二人であった。その後、子孫が河之川や追廻に広がった。河之川・追廻の山﨑家の家紋は丸に桔梗、樫谷山﨑家の家紋は丸に三菱である。
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