日本公使館員の脱出
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漢城の日本公使館駐留武官だった水野大尉の報告などによると、暴徒に包囲された公使館員たちの脱出行は以下のとおりである。 朝鮮政府から旧軍反乱の連絡を受けた日本公使館は乱から逃れてくる在留日本人に保護を与えながら、自衛を呼びかける朝鮮政府に対して公使館の護衛を強く要請した。しかし混乱する朝鮮政府に公使館を護衛する余裕はなく、暴徒の襲撃を受けた日本公使館はやむを得ず自ら応戦することになった。蜂起当日はなんとか自衛でしのいだ公使館員一行だったが、暴徒による放火によって避難を余儀なくされた。朝鮮政府が護衛の兵を差し向けてくる気配はなく、また公使館を囲む暴徒も数を増しつつあったので、弁理公使の花房義質は公使館の放棄を決断。避難先を京畿観察使営と定め、花房公使以下28名は夜間に公使館を脱出した。 負傷者を出しながらも無事に京畿観察使の陣営に至ることに成功したが、陣営内はすでに暴徒によって占領されており、京畿観察使金輔鉉はすでに殺害されていた。公使館一行は次いで王宮へ向かおうとするが南大門は固く閉じられていて開かなかった。王宮の守備隊長は彼らに退去を命じたという。 花房らはついに漢城脱出を決意し、漢江を渡って仁川府に保護を求めた。仁川府使は快く彼らを保護したが、夜半過ぎに公使一行の休憩所が襲撃され、一行のうち5名が殺害された。襲撃した暴徒の中には仁川府の兵士も混ざっており、公使一行は仁川府を脱出、暴徒の追撃を受け多数の死傷者を出しながら済物浦から小舟(漁船)で脱出した。その後、海上を漂流しているところをイギリスの測量船フライングフィッシュ号に保護され、7月29日、長崎へと帰還することができた。
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