日本公演実現とファンの努力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 09:37 UTC 版)
「ポール・マッカートニー」の記事における「日本公演実現とファンの努力」の解説
ポールはビートルズの解散後にソロミュージシャンとして現在まで7度訪日し、ツアーを行っている。しかし、主にウイングスとして活動していた1970年代に彼の日本公演が実現することはなかった。 初の日本公演は1975年に計画されていたが、マッカートニー夫妻の72年のスウェーデンなどでの薬物所持歴などを理由として、法務省が訪日直前にビザを無効としたため中止になっていた。 やっとビザが発給された1980年には、成田空港で大麻所持により逮捕、勾留、強制退去でコンサートは中止となった。このため当時ポールは入国管理局のブラック・リストに掲載され、日本への入国は不可能になったと考えられた。 1989年1月、ニュー・アルバム発売後にワールド・ツアーを行うことが内定すると、ビートルズ公認ファンクラブのビートルズ・シネ・クラブがポール側に日本公演の実現の働きかけを開始。『フラワーズ・イン・ザ・ダート』発売後の7月にはポールの入国許可を求める署名活動を全国的に実施、20万人もの署名を集め、12月22日に法務省へ提出した。法務省も『ライヴエイド』などポールの世界的な文化貢献の認知度も考慮してビザ発給を許可したため、ビートルズの来日公演から約24年ぶりとなる1990年3月に、ファン待望の日本公演が行われた。
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