新聞雑誌の検閲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 20:19 UTC 版)
「ドイツ民主共和国における検閲」の記事における「新聞雑誌の検閲」の解説
定期刊行物(Periodika)は、発行のライセンスを得ることが義務づけられていた。ソ連占領下では、数少ない超党派の新聞(例えば、夕刊エアフルト新聞、または日刊ポツダム新聞)にまで、党の支持が求められた。衛星政党を含んだ翼賛体制によって、SEDは、完全な管理を可能にしており、超党派の新聞は廃刊に追い込まれた。1950年代はじめには、衛星政党と大衆組織(ドイツ語版)がすべての東ドイツの日刊紙(ドイツ語版)を管理していた。 東ドイツの新聞販売所は、新聞と雑誌の販売と配達を独占的に行なっていた。新聞販売所は、販売する新聞と雑誌のリストを統率しており、記録されていなかったり抹消された出版物を、事実上発禁扱いにしていた。1988年11月には、ソ連雑誌「スプートニク」が批判的な記事を多く掲載していたことを理由に、一年間リストから抹消している。ソ連の雑誌さえ発禁にしたことは知識人の反感を買い、翌年の体制崩壊の原因の一つとなった。 中央委員会(いわゆるアジテーション・プロパガンダ部門の「精鋭部隊」)と新聞局は、査定部という、すべての出版物の価値を評価する部署を管轄しており、その機関はメディアとジャーナリズムに対する制裁を規定する土台として用いられた。
※この「新聞雑誌の検閲」の解説は、「ドイツ民主共和国における検閲」の解説の一部です。
「新聞雑誌の検閲」を含む「ドイツ民主共和国における検閲」の記事については、「ドイツ民主共和国における検閲」の概要を参照ください。
- 新聞・雑誌の検閲のページへのリンク