新旧トルグートの細分化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 17:46 UTC 版)
「トルグート」の記事における「新旧トルグートの細分化」の解説
1783年、乾隆帝の詔により、旧トルグートは東西南北の四路に分けられることになり、4人の盟長と4人の副盟長が置かれた。新トルグートは左右二翼に分けられ、正副各一人の盟長が置かれた。 旧トルグート南路・ハーン旗長(ジャサク)でジョリクト・ハーンであったマハバザルは1852年に亡くなり、息子のラトナバザルが後を継いで、1857年にブヤン・オルジェイトと改名した。同年、ブヤン・オルジェイトは、ヤンギサールその他の地方における盗賊を掃討するのに功があったことを清から賞せられ、ウネンスジュクト盟の副盟長の地位を与えられた。しかし、1864年に勃発したムスリムの大反乱(同治の回乱)により、彼はイリの牧地をことごとく失ってウルムチに逃げてきた。京師(北京)に行って皇帝に謁見したいという願いが聞き入れられ、1868年、ブヤン・オルジェイトは北京に赴き、清の同治帝に拝謁することができた。翌年、ウネンスジュクト盟長に賞せられ、さらに1872年には御前走行を命ぜられた。ブヤン・オルジェイトは1876年に病没し、息子のブヤン・チョクトが後を継ぎ、父のハーン号と盟長を引き継いだ。 ブヤン・チョクト・ハーンは1891年に病没し、長子のブヤン・モンケが跡を継いだが、盟長の事務はその祖母が取った。1896年、盟長とジャサク(旗長)の事務をブヤン・モンケの母が取ることになった。1902年、ブヤン・モンケが18歳になったので、ようやく自ら印務を取るようになった。 ブヤン・モンケの死後(辛亥革命後の1917年)、その子マンチュクジャブがわずか2歳で位を継いだ。マンチュクジャブの息子ハーン・ゴンボ・デジドはゴンボ・ダンジンという名前であるが、現代中国の研究書の系図にも名前が掲載されているから、少なくとも戦後まで生きていたことは間違いない。
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