斜里まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:13 UTC 版)
文化4年(1807年)の陰暦5月、津軽藩士たちは北方警備の幕命を受ける。急なことながら出立の仕度を固め、5月28日に青森を発ち、6月4日に北海道の箱館(現在の函館市)に上陸。数日間を過ごした後、陸路で北海道北端の宗谷へと出立し、7月9日に到着する。当時、和人人口が200人あまりだった宗谷場所に都合100人の津軽藩士たちが駐屯することになったため、長屋などを急遽建設し、樺太を望む宗谷海峡の警備に当たった。 ところが7月9日になって、突如として「シャリ場所の警備」の命が下される。宗谷に詰める人員100人のうちから、30人が最初に出立し、オホーツク海沿岸を陸路で南下したのち、7月29日(太陽暦9月1日)に現地に到着する。当時のシャリ会所は敷地面積38坪ほどの茅葺で、付属施設として数軒の板倉があるのみだった。合計で100余人にもなる藩士たちの収容場にはとても及ばないため、周辺の山林からトドマツを伐採して30坪ほどの陣屋3棟と板倉などの付属施設を建設した。構造材が急ごしらえの生木だったため陣屋の構造には狂いが生じ、後に隙間風に悩まされるようになる。しかし心配されたロシア船来航の兆しは無く、一同は月の3、13、23日に射撃訓練などをしている。
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