斎藤春子とは? わかりやすく解説

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斎藤春子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/22 07:42 UTC 版)

さいとう はるこ
斎藤 春子
生誕 (1873-03-10) 1873年3月10日
日本東京都
死没 (1971-09-14) 1971年9月14日(98歳没)
日本
出身校東洋英和女学校中退
明倫女学校卒業
配偶者斎藤実(夫)
子供斎藤斉(養子)
仁礼景範(父)
仁礼寿賀子(母)

斎藤 春子(さいとう はるこ、1873年明治6年)3月30日 - 1971年昭和46年)9月14日)は、日本華族。第30内閣総理大臣夫人斎藤実子爵夫人。

経歴

東京都出身。1873年明治6年)3月30日薩摩藩士で海軍の重鎮であった仁礼景範の長女として生まれる[1]。兄の仁礼景一は日露戦争で初瀬分隊長として戦死、弟の仁礼景雄昆虫学者[2]1884年(明治17年)に明倫女学校(現在の横浜清風高等学校)を卒業。その後、東洋英和女学校に進学したが中退。

1892年(明治25年)2月5日斎藤実と結婚。斎藤実との間には子供はなく、斎藤斉を養子に迎えている[1]

1932年昭和7年)5月、斎藤実の内閣総理大臣就任により、内閣総理大臣夫人となる。内閣総理大臣夫人は1934年(昭和9年)までつとめた。

1935年(昭和10年)、斎藤実は内大臣に就任。翌1936年(昭和11年)2月26日二・二六事件で自邸の寝室に居たところを陸軍将兵らの襲撃を受け、斎藤実は死亡、春子も負傷した[2]

夫の死後は日本赤十字社篤志看護婦人会員となる[2]1945年(昭和20年)、太平洋戦争の悪化により夫の実家の岩手県胆沢郡水沢町(のち水沢市、現・奥州市)に疎開[2]。終戦後も同地に留まり、余生を過ごした[2]

1963年(昭和38年)、水沢名誉市民[2]。同年、自宅を水沢市に寄付することを表明[2]、自宅は斎藤實記念館となった(1972年(昭和47年)開館)。

1971年(昭和46年)9月14日、死去。享年98。墓所は東京都府中市多磨霊園

脚注

  1. ^ a b 『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 昭和・平成篇』竹内正浩、実業之日本社, 2017, 「第二章 斎藤実」の項
  2. ^ a b c d e f g 斎藤春子”. 歴史が眠る多磨霊園. 2021年9月22日閲覧。
先代
犬養千代子
内閣総理大臣夫人
1932年5月26日 - 1934年7月8日
次代
広田静子



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