敦明親王の皇位辞退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 14:48 UTC 版)
62 村上天皇 63 冷泉天皇 64 円融天皇 65 花山天皇 67 三条天皇 66 一条天皇 敦明親王(小一条院) 敦成親王(68 後一条天皇) 敦良親王(69 後朱雀天皇) 長和3年(1014年)頃から三条天皇は眼病を患い政務に携わることが不可能となったため、当時内覧であった左大臣藤原道長は、天皇に敦成親王への譲位を求めるようになった。天皇はかたくなに拒んだが、この間に内裏の火災が相次いだため、道長はこれを天皇の不徳であるとした。一ヶ月ほどの交渉の間に道長が折れ、次の東宮には三条天皇の第一皇子の敦明親王が立てられることとなった。 長和5年(1016年)1月29日、三条天皇は譲位し敦成親王が践祚(2月7日に即位:後一条天皇)。三条上皇は翌寛仁元年(1017年)5月9日崩御した。その直後の8月4日に、敦明親王は道長に対し会談を求めた。8月6日に道長が東宮御所に赴くと、親王は東宮の地位を辞退する旨を打ち明けた。 道長は翻意するよう(形式的に)説得するが敦明親王の意思は固く、結果として後一条天皇の弟である敦良親王(のちの後朱雀天皇)が新たに東宮として立てられることとなった。道長が敦明親王を東宮として認めなかった、あるいは認めたくなかったという実証として、壺切の存在が挙げられる。8月23日の敦良親王立太子式から2週間後、内裏から壺切が授けられたが、敦明親王立太子の際にはこれを授けることを拒み、ついに敦明親王は立太子から辞退までの1年半、壺切を受けることがなかったのである。敦明親王は皇位継承権を失い「小一条院」の尊号を受け、太上天皇に次ぐ扱いを受ける。
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