教育官僚・教育者として
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明治17年(1884年)、東京師範学校を卒業した一遊は文部省御用掛となり、各地に整備されつつあった小学校の教則を審査するとともに師範学校で学んだ教授法を指導する仕事にあたった。明治19年(1886年)には29歳で高知県師範学校の校長を兼ねたが、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験などを担当することとなり7か月で呼び戻された。 明治22年(1889年)、愛媛県から分離されたばかりの香川県学務課長に転出。初代香川県尋常師範学校長も兼ねて同校建設にあたった。香川への赴任前に、同郷の文部省の先輩である内藤素行の長女順と結婚している。明治23年(1890年)には、参事官の江木千之の下で小学校令の改正にあたった。明治25年(1992年)からは兵庫県尋常師範学校長に転じたが、1年余りで健康を害して休職している。復職後は、明治31年(1898年)愛知県師範学校長、明治32年(1899年)埼玉県視学官、明治33年(1900年)福島県視学官を歴任、明治35年(1902年)に滋賀県師範学校長となった。滋賀県師範学校長としての在任は12年に及び、その後大正2年(1913年)に請われて郷里の愛媛県師範学校長に転じ、大正12年(1923年)に退官するまで10年間務めた。
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