政治の場として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 08:27 UTC 版)
『ホテル養神亭 むかしと今』によれば、1926年12月に宮内省から大正天皇の病状の悪化が公表されると、大正15年1月30日に発足したばかりの若槻内閣の閣僚が養神亭に宿泊、葉山御用邸に赴き、その結果養神亭に内閣を引越しさせることを閣議決定したという。 当時は第51回帝国議会が開会中であったが若槻禮次郎首相以下若槻内閣全閣僚および貴族院議長徳川家達・副議長蜂須賀正韶、衆議院議長森田茂・副議長松浦五兵衛等議会関係者、朝日・読売等の各新聞社が来亭したために、大正天皇の病状のほかに政治経済の動きも逐一逗子発として報じられた。養神亭から送られた若槻の手紙や、御用邸に赴く大臣らを養神亭の玄関先で捉えた写真などが残されている。十六宮家は当時新築間もないなぎさホテルへと宿泊した。 尾崎行雄は披露山の風雲閣に在住していたが、三重から上京する選挙後援会の幹部の宿泊や知人との会食に養神亭を利用していた。1936年2月26日の早朝に二・二六事件が発生し、養神亭にも着剣した陸軍将兵が乱入した。風雲閣にいなかった(あるいは前日の雪で急坂の披露山に登れなかったか)尾崎が目的であったが、宿泊しておらずことなきを得た。
※この「政治の場として」の解説は、「養神亭」の解説の一部です。
「政治の場として」を含む「養神亭」の記事については、「養神亭」の概要を参照ください。
- 政治の場としてのページへのリンク