戴潮春の乱の鎮圧
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1863年9月10日、閩浙総督左宗棠から台湾に戻って戴潮春の乱を鎮圧するように命じられた。このとき台湾北部では台湾兵備道丁曰健が南下の準備を始めていた。11月24日、林文察は安平より上陸し、12月2日に嘉義に到着し、当地の2百数十荘は清軍に投降した。護理水師提督曽元福と作戦を協議した結果、嘉義と彰化を結ぶ道路を押さえてから、彰化を奪還する作戦をとった。こうして白瑛と関鎮国が斗六を攻め、彰化知県の凌定国は宝斗(現在の北斗鎮)から南進を開始した。林文察本人は許忠標らと海沿いに北上し、12月8日に麦寮郷に進駐して、南下した林文明と合流した。各方面の部隊は彰化県城を包囲し、12月13日に陥落させた。その後、斗六に向かい戴潮春を支持する30余りの村を殲滅し、斗六に迫った。しかし斗六の守りは固く、容易に落とせそうになかった。そこで1864年1月20日、各軍を城外に撤退させ、関鎮国の部隊を残した。1月26日、関鎮国は草に火をつけ煙をあげ、あわてている様を装った。そこに城内の敵が出撃したところを甘蔗畑に潜んでいた伏兵が襲いかかり、関鎮国隊と挟撃して、大敗させ、斗六城の回復に成功した。1月29日、戴潮春は降伏し、斬られた。 1月30日には林文察は四塊厝荘への攻撃を始め、2月18日に林日成を斬殺し、この地を回復した。
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