戴逯を救援
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 14:47 UTC 版)
遡って太元3年(378年)8月、前秦の兗州刺史彭超もまた別働隊を率いて沛郡太守戴逯の守る彭城へ侵攻し、さらに後将軍倶難らが7万を率いて淮陽・盱眙へ侵攻した。 太元4年(379年)2月、謝玄は東莞郡太守高衡・後軍将軍何謙を始めとした1万余りの兵を率いて彭城救援に向かうと、泗口まで軍を進めた。彼は彭城にいる戴逯に援軍到来を告げようとしたが、道は絶たれてしまっていた。部曲の田泓は自ら水を潜って彭城へ向かうと名乗り出ると、謝玄はこれを認めて派遣したが、田泓は向かう途上で前秦軍に捕らえられてしまった。この時、前秦軍は彼に厚く賄賂を贈り、既に援軍が敗れたと城内へ嘘の連絡をするよう持ち掛けると、田泓はこれを偽って表向きは同意した。そして彼は城の傍へ赴くと、城中へ「南軍(謝玄の軍)はすぐに到達するぞ。我は単独で報せに来たが、賊に捕らわれる事になった。汝らは勉めよ!」と告げた。田泓は前秦軍に殺されてしまったが、これにより城内と連絡をとることが出来た。 この時、彭超は輜重を留城に置いていたので、謝玄は敢えて彭超軍を攻めずに何謙・高衡を留城に向かわせた。彭超はこれを聞くと彭城の包囲を解き、軍を引いて輜重を守ったので、戴逯はこの隙に彭城の衆を伴って謝玄の陣営へ逃れることが出来た。
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