成り立ちと開山巨海意龍とは? わかりやすく解説

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成り立ちと開山巨海意龍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 06:27 UTC 版)

全久院 (新潟県出雲崎町)」の記事における「成り立ちと開山巨海意龍」の解説

松本市全久院35住持巨海意龍の時、松本藩戸田光則が自らの範を示して菩提寺である全久院廃した巨海意龍は全久院存続嘆願した悉く却下され明治4年、止むなく本尊経典仏具等を奉じて越後出雲崎羽黒町裏山にあった広庵錫杖をとめて布教つとめたその後明治10年10月井鼻にあった観音堂元に県の許可得て全久院改称し建立された。 全久院開山である巨海意龍は養泉寺17世・百観音院五泉市3世全久院松本市35世である。 養泉寺所蔵する2種過去帳略伝記されていた。略伝によると、意龍は中蒲原郡古津村出身で、俗姓保志氏。観音寺阿賀野市34世煩海筏舟の法嗣で、全久院32雲生洞門にも参随している。 養泉寺は首先住職地で、文久2年1862年)には34棟門の請によって全久院35世へ昇住したその後先述通り廃仏毀釈運動により出雲崎へ難を逃れ全久院開山となる。明治11年6月再建入仏が行われ、その法語残されている。 拈じ得たり 迷盧の宮 十方の世表 堂中に現ず 乞う看よ 諸仏来迎の処 無上法輪 転じて窮らず とある。再建にあたり多く寺院寄進者の寄附単が堂内に今も残されている。 明治19年松本全久院本寺であった泉龍院愛知県新城市)より意龍の先住地の養泉寺とする本寺換え許可された。同年6月19日全久院において、75歳死去した。 意龍から嗣法された弟子は7名いるとされ、現在もその法孫は広がり伝わっている。

※この「成り立ちと開山巨海意龍」の解説は、「全久院 (新潟県出雲崎町)」の解説の一部です。
「成り立ちと開山巨海意龍」を含む「全久院 (新潟県出雲崎町)」の記事については、「全久院 (新潟県出雲崎町)」の概要を参照ください。

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