意匠制定と昭和天皇
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東京朝日新聞記者で長く宮内省記者会に所属した井原頼明は、自著『皇室事典』(冨山房、勲章制定の翌1938年(昭和13年)に初版)で、昭和天皇の意向で意匠が桜花から橘花に変更されたことを伝聞として、なぜ橘花なのかを自説として紹介している。 なほ文化勲章の圖案はもと櫻花に配するに曲玉の意匠であつたが、「櫻は昔から武を表はす意味によく用ゐられてゐるから、文の方面の勲績を賞旌するには橘を用ゐたらどうか」との意味の畏き思召を拜し、恐懼した當局では更に案を練って工夫を凝らし、橘花に曲玉を配した意義深い圖案が制定されたと承る。 — 井原頼明『皇室事典 増補版』冨山房、1979年(昭和54年)、233頁 橘は古來我が國では尊重され愛好せられ、桓武天皇が平安京に遷都遊ばされてからは紫宸殿の南庭に用ゐられて右近橘と稱せられ、左近櫻と共に併稱せられて今日に及び、萬葉集にも數多く詠ぜられてゐるところである。垂仁天皇が常世國に橘を求められたことよりして、橘は永劫悠久の意味を有してゐるものであり、その悠久性永遠性は文化の永久性を表現するのに最も適するものとの聖慮と拜察される。 — 井原頼明『皇室事典 増補版』冨山房、1979年(昭和54年)。233頁 1976年(昭和51年)8月23日、那須御用邸における天皇と記者との懇談の際、天皇はこの件について質問を受けた。天皇は意匠制定に関与したことを否定せず、「橘の方は常緑樹でもあるし、『古事記』にも出てくるし、文化と言うのは、生命が長くなければならない、と感じたからです」とその意図を説明した。
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