想像が遅れて流る熊野川
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評 言 | この熊野川は作者のふるさとを流れる大河である。奈良山中はかなり急流だが和歌山県内に入るとなだからな流れになる。蛇行をくり返す川に沿って道を下って来た目に川幅の広がりが入るとほっとする。同時に河原の白さと水の青さに不思議な気分になる。この地域の歴史がその清流ぶりに似つかわしくないように思えるからであろう。 一皮剥けば、日本という国の成り立ちに関わる混沌が混沌のまま現在もいきづいているような地域である。だからこそであろうか、三島由紀夫亡き後の壮大な物語を書ける作家として中上健次は新宮に生れている。彼が開いた「熊野大学」に俳人宇多喜代子は深く関わったが、その宇多をひそかに師と大畑は仰いでいると生前あるエッセイに記していた。産土を介した人の縁の不思議さとその絶景を思わずにはいられない。 「流る」で切って読めとの意で終止形である。一拍置いて「熊野川」と大畑は読ませたいのだ。歴史への「想像が遅れ」るほどの急流が、ある地点からなだらかな大河になるこの川の様を実感できる仕組みになっている。どうだ?今、君はもう一度句を読み下してみたばかりだろ?きっと大畑は天国で笑っているはずだ。あのあばた面の大きな顔で。意外に悪戯好きな男であった。平成二八年一月十日好漢逝去。 |
評 者 | |
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