悪党・非御家人説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:59 UTC 版)
永仁3年(1295年)、東大寺領播磨大部荘が雑掌(請負代官)でありながら年貢を送らず罷免された垂水左衛門尉繁晶の一味として楠河内入道がおり、黒田俊雄はこの河内楠一族を正成の父と推定し、正成の出自は悪党的な荘官武士ではないかとした。 林屋辰三郎は河内楠氏が散所民の長であったとした。兵藤裕己はこの説を有力とし、正成の行為も悪党的行為であるとした。 元徳3年(1331年)9月、六波羅探題は正成が後醍醐天皇から与えられた和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収した。網野善彦は、この時の正成は、若松荘の所有を主張していた内大臣僧正道祐から何らかの職を得ていたとする。このことから、正成が反関東の非御家人集団とみなす説がある。佐藤和彦によれば、楠木氏は摂津から大和への交通の要衝玉櫛荘を支配し、近隣の和田(にぎた)氏、橋本氏らは同族で、楠木氏は摂津から伊賀にいたる土豪と商業や婚姻によって結びついていた。また植村清二はこの「兵衛尉」官職名から幕府御家人とした。しかし、森田康之助は、高柳光寿の主張を踏襲する形で、「兵衛尉」は御家人でなくても名乗ることができ、むしろ兵衛尉を名乗っていることから正成は御家人ではなかったと述べた。 正成を非御家人とみなす説について新井孝重は、楠木氏が「鎌倉武士のイメージと大きく異なるゆえに、もともと鎌倉幕府と関係のない、畿内の非御家人だろうと考えられてきた」が、「畿内のように交通と商業が盛んなところであれば、どこに暮らす武士であっても、生活のしかたに御家人と非御家人の違いはないとみたほうがよい。だから楠木氏その存在のしかたを理由に非御家人でなければならない、ということにはならない」と述べている。
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