恵林寺の門前市
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恵林寺周辺は秩父往還・金山道が交差する交通・流通の要衝地で、金峰山へ向かう参詣客も多く、このため古くから市場が存在していた。永禄6年(1563年)の『恵林寺領御検地日記』『恵林寺領米穀并諸納物日記』によれば、恵林寺の寺領には「三日市場」「九日市場」のふたつの市場が存在しており、定期市として開かれていた。 三日市場は恵林寺が所在する塩山小屋敷南に塩山三日市場の町名として残されている。「九日市場」については寺領内のいずれかに存在していたと見られているが、地名・伝承いずれも見られず正確な所在地は不明。双方とも戦国時代に門前市として、恵林寺創建年代の鎌倉時代末期から室町時代初期には成立していたと考えられている。「三日市場」に関しては明応8年(1499年)時の存在が確認される。 『御検地日記』『諸納物日記』によれば三日市場は軒数26間半で、恵林寺に「公事」を納入する公事屋敷が14間であったという。九日市場は軒数21間半で、公事屋敷が16間と記している。「公事」は恵林寺の年中行事や仏事、月ごと・季節ごとに納入される公事物を指し、門前市の住民に納入が義務付けられ、恵林寺の寺院経済を支えていた。市場には武田氏によって設けられた「陣屋」「御蔵」があり、年貢・公事物などが納入され、市場において銭貨と交換され、武田家の財政を支えていた。この点は徳川氏時代にも引き継がれており、塩山三日市場に所在する十組屋敷は武田家の陣屋であったという。 門前市の住民(「名請人」)は三日市場と九日市場で共通する人物がおり、恵林寺の経営に深く関わる僧であると考えられている。また、武田氏の下級家臣となっている禰宜やその一族も見られる。その他の百姓も惣百姓と呼ばれる有力農民で構成されており、専業の商職人ではなく地侍・有力農民が商業に携わっている事例が多いことが甲斐国の特徴であることが指摘される。 門前市の住民は借家人であり、別に屋敷を貸し与える家持層がいたと考えられている。両市場とも定期市であることから、住民は普段は農業等に従事し、市日には屋敷地において商業を行っていたと見られている。
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