恵林寺を成敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:29 UTC 版)
『信長公記』に、天正10年(1582年)4月3日、甲州征伐で武田氏が滅亡した後に恵林寺(甲州市塩山)に逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)の引渡しを寺側が拒否したため、織田信忠が、織田元秀・長谷川与次・関長安・赤座永兼に命じて寺を焼き討ちさせた。僧150人が殺され、住職快川紹喜は身じろぎもせずに焼け死んだ。有名な「心頭滅却すれば火もまた涼し」は紹喜の辞世の句の下の句という。 以上が史実であったが、『絵本太閤記』等ではこれに加えて、光秀が強く反対し、制止しようとして信長の逆鱗に触れ、折檻してさらには手打ちにしようとしたと云う、これまで見てきたものと似たような展開とされている。しかし、そもそも焼討を命じたのは信忠であり、同日、信長は甲府にいた。他方で、快川紹喜は土岐氏の出身で、光秀も内心穏やかではなかったのではないかという説もあり、(光秀が制止したという創作は除いて)諸説の補強説明に利用されることがある。
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