恵州蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 02:15 UTC 版)
詳細は「辛亥革命#恵州起義」を参照 1900年(明治33年)9月、良政の斡旋により孫文は台湾総督の児玉源太郎と民政局長の後藤新平と面会し、武器提供の約束を取り付けた。この武器提供の約束を受けて孫文は内地にいる鄭士良に対し電文を送り恵州三洲田での武装蜂起を指示し、10月6日に蜂起した。一方、日本国内では第2次山縣内閣が総辞職し、伊藤博文を総理大臣とする第4次伊藤内閣が組閣し、台湾総督の児玉に対し孫文率いる革命軍への武器提供を禁ずる命令を下した。日本国内での政情の変化に対して孫文は犬養毅に伊藤の説得を依頼したが決定が覆らず、宮崎滔天を通じた中村弥六からの武器調達も失敗に終わった。 良政は恵州での蜂起の時点では、台湾から香港に入り広東省の陸豊や海豊で挙兵をするために活動していたが、台湾で指揮を執っていた孫文から日本からの武器提供が困難になったことの状況説明と蜂起軍の処置を一任された。良政が鄭の陣営に到着したのは蜂起後のことだったが、既に兵站が尽きていたこともあり、鄭は蜂起軍の解散を決定した。 良政は鄭の率いる数百人の兵と共に香港へと撤退をはじめたが、10月22日に清軍と遭遇し消息を絶った。戦死したとも、清側に捕らえられ殺害されたとも伝えられる。良政は辛亥革命に関わった日本人協力者の中で最初の犠牲者となった。山田良政の弟純三郎が昭和14年に残した手記「支那革命と私と子息順造に取材した保阪正康によれば処刑が事実であると聞き取ったそうである。
※この「恵州蜂起」の解説は、「山田良政」の解説の一部です。
「恵州蜂起」を含む「山田良政」の記事については、「山田良政」の概要を参照ください。
- 恵州蜂起のページへのリンク