恵州起義
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1900年、義和団の乱が発生すると華北地方は無政府状態となったため、この機会に乗じて武装蜂起が計画された。6月、孫文と鄭士良、陳少白、楊衢雲及び宮崎滔天、平山周、内田良平などが横浜から香港に到着したが、イギリス当局により入国を拒否されている。9月25日、孫文は黒龍会の支援の下、馬関を経て台湾に移動、台湾総督府民政長官と会談し、台湾総督府の広州武装蜂起の支持を獲得した。孫文は台北市に武装蜂起司令部を設置、10月8日に孫文は鄭士良等に命じ恵州三洲田(現在の深圳三洲田)で武装蜂起を指示した(恵州起義、庚子革命、庚子首義、三洲田首義等)。決起軍の規模は2万人に拡大したが、台湾総督府官僚の態度が変化し、補給と軍人の参加の約定が覆されると、革命軍は物資補給に困窮し解散、間もなく清により失敗宣言が出された。この武装蜂起では史堅如、山田良政などが命を落としている。孫文は決起失敗後に日本当局により日本に移送されている。
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