応天門の変
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応天門の変(おうてんもんのへん)は、平安時代前期の貞観8年(866年)に起こった政治事件。
- ^ 『日本三代実録』貞観8年9月22日条には鷹取の娘が殺害され、鷹取自身も負傷したと記されている。また、『宇治拾遺物語』『伴大納言絵詞』によれば、鷹取の子が善男の出納の子供と喧嘩して、その出納が鷹取の子を死ぬほど殴りつけたのを恨んでのこととされる。なお、鷹取の娘が殺されたのは密告に対する報復であるとする解説(朧谷寿「大宅鷹取」『平安時代史事典』角川書店、1994年など)もあるが、後述のように密告者は同時に虚偽告発の容疑者として被密告者の処分が確定するまで拘禁されることが獄律(告言人罪条)で定められており、実際にその規定通りに検非違使に拘禁されている鷹取に報復を加えることは不可能である(鈴木、P338-339.)。
- ^ いずれも『日本三代実録』より(鈴木、2018年、P340-341.)。
- ^ 『日本三代実録』貞観8年8月22日条には良房が貞観6年に大病を患って以降表向きの政務から退いていることが記されている。
- ^ 鈴木、2018年、P344-346.
- ^ 応天門の放火に対する伴善男に対する取調は天皇から太政官に命じられていたが、大伴鷹取父子襲撃は普通の刑事事件として刑部省にて捜査が行われていた(鈴木、2018年、P339.)。
- ^ 『江談抄』
- ^ 鈴木は当時の伴氏は家格の低下に伴って実務官僚として昇進しない限り出世は望めない状態になっており、中庸は父を大臣にすることで自分の息子たちを祖父の蔭位で立身させて少しでも将来の出世に有利を図ろうと目論んでいたと考えれば動機について説明可能とする(鈴木、2018年、P348-350.)。
- ^ 『日本三代実録』元慶4年12月4日条の清和上皇の崩御記事には、伴善男は息子の大逆罪に連座するのを承服せず、他の廷臣も疑問を呈する中で天皇が刑理をもって厳しく罰したとある。これは伴善男を大逆罪(応天門への放火)の主犯とした貞観8年9月22日の決定とは矛盾しており、鈴木説では9月22日の太政官の決定が刑部省による大宅鷹取父娘襲撃事件の最終的な判断が終了しない(襲撃についても放火についても、中庸の単独犯か善男の命令によるものか判断できない状況)中で清和天皇の意向によって善男を主犯とする判断が下されたことを示唆しているものとする(鈴木、2018年、P343.)。
- ^ 伴中庸は大宅鷹取の娘を殴殺した罪でも有罪とされたが、既に遠流になっているため殴殺事件における処分は見送られた(『日本三代実録』貞観8年10月25日条)。
- ^ a b 生江恒山と占部田主は応天門放火に対する罪ではなく、大宅鷹取の娘を殴殺した罪に対して、遠流に処されている(『日本三代実録』貞観8年10月25日条)。
- ^ 萩谷朴「貫之の家系」『二松学舎大学創立八十周年記念論集』所収、1957年
[続きの解説]
「応天門の変」の続きの解説一覧
- 1 応天門の変とは
- 2 応天門の変の概要
- 3 参考文献
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