後継と横須賀衆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 15:51 UTC 版)
跡を継ぐ男子がいなかったため、広宣の次男勝宣を養子に迎えていたが、勝宣15歳で参戦した大坂夏の陣の際、実兄の久世広当の活躍に対抗して奮戦した結果、戦死した。このため義理の孫(渥美勝吉の子で娘婿渥美正勝の子)にあたる広利を養子に迎えて家督5千石を相続させた。広利はさらに自身の養子として実弟の広通を渥美家から迎え、これに300俵を分けて分家させている。坂部・久世・渥美の三家は皆、かつて横須賀衆として大須賀氏の配下にあった家である。天正6年(1578年)8月に徳川勢が高天神城下にて武田氏と戦った際、一番槍久世三四郎(久世広宣)、二番槍渥美源五郎(勝吉。娘婿正勝の父で「首獲り源五」の異名を持つ)、一番首坂部三十郎(広勝)という働きがあったと伝わる。娘の嫁ぎ先である清水広吉は、横須賀時代からの大須賀家の家臣で、大須賀忠次が榊原氏を継いだ際、主と共に榊原家に移った。
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