当時最強の柔道家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 15:20 UTC 版)
これらの激しい稽古でさらに実力を伸ばし、全日本選士権ができてからも第1回大会(1930年)こそ東京府予選の決勝で曽根幸蔵の大外刈に苦杯を嘗めたものの、本大会出場を果たした第2回(1931年)・第3回(1932年)大会では連覇を達成。先の明治神宮大会と合わせ、現在で言えば全日本選手権を5度制した事になる、この時代を代表する最強の柔道家だった。 1934年、皇太子生誕記念の第2回天覧試合に出場。予選リーグで遠藤清に勝ったが菊池揚二と大谷晃に敗れ、リーグ敗退した。この時の牛島の敗戦は肝吸虫により体が衰弱しきっていた事が原因だったという。 「負けは死と同義」と公言していた牛島は即引退し、その後は私塾「牛島塾」を開いて木村政彦、船山辰幸、甲斐利之、平野時男らを育てる名伯楽となった。
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