延命寺と「尾張藩千賀家」
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「延命寺 (愛知県南知多町)」の記事における「延命寺と「尾張藩千賀家」」の解説
知多半島尖端の羽豆岬は、伊勢湾と三河湾が交わり、伊勢にも近く外洋にも出やすい尾張藩にとっての軍事と商業の要所だった。羽豆岬には羽豆岬(幡豆岬)城が置かれ、尾張藩の船奉行を務めた千賀家が護りに就いた。また千賀家一族の屋敷があったのが現在の延命寺山門前とその背景の丘の麓であった。現在でも、延命寺の丘(墓地)を登ると羽豆岬と師崎の集落が見渡せる。千賀家は、1562年(永禄5年)に千賀重親が徳川家康から船奉行を命ぜられ伊勢湾および三河湾の警固のため羽豆岬城へ入った。徳川家康の関東入りに伴い千賀家は一旦伊豆に移るが、再び羽豆岬に戻る。関ヶ原の戦いの後は羽豆岬城を破却しその古材で師崎の集落(延命寺の丘麓周辺)に屋敷を築き住んだ。延命寺は千賀家の菩提寺(衆寮)だが、千賀家歴代墳墓は南知多町豊浜の曹洞宗池水山正衆寺にある(『尾張群書系図部集』第1巻(加藤国光 編集)より)。師崎は、古くから鯨漁が行われていた地。鯨の漁をする「鯨師(げいし)の岬」=「師崎」。師崎の鯨漁は千賀家により推奨され発展した。師崎は日本の捕鯨の発祥地とされている(諸説あり)。文献は『西海鯨鯢記』(1720年・享保5年)、『張州雑誌』(熱田神宮史料)。詳しくは小松正之『歴史と文化探訪 日本人とくじら』(ごま書房)にある。
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