庶民の子供と教育
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:46 UTC 版)
江戸時代になると男系小家族が多くなる。「嫁して7年子無きは去る」という儒教の教えもあり、女性は家を継ぐ男子の出産を求められ、また後継ぎを求めるために妾を持つことも正当化された。ただし男子に恵まれない場合に養子、婿養子をもらうことは容易であった。女性は健全な子供を産むことが課題となり17世紀末になると妊娠出産の啓蒙書が普及したが、「愚かな女性に健全な世継ぎを産ませる」という背景があった。 17世紀には庶民の初等教育を行う寺子屋が開設される。19世紀になると飛躍的に数が増えるが、寺子屋の経営者にも女性がいた。明治元年の調査によれば全国15512の寺子屋があり、179か所が女性経営者であった。これらの寺子屋では女師匠を多く雇い、生徒も女生徒の比率が高かった。また女子は武家や公家に行儀見習いに出るという手段もあり、そのために三味線や琴などの稽古が流行した。こうした背景のなかで1837年に奥村喜三郎は女学校を建てるべきだと主張した。設立趣意書には読み書きと行儀、長刀、小太刀を身に着け、機織り、裁縫などを教えるとされたが、計画のみで実現しなかった。
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