広恵倉・修教館の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/23 15:38 UTC 版)
文化末年以来の豊作による米価下落に対し、文政3年(1820年)国産の鯣・干鱈等の漁獲物と他国産の半紙・陶器・蝋等の日用品との交易奨励、国産米穀・材木の買い置きによる価格調整等を献策し、文政6年(1823年)羽田浜町に広恵倉を建設した。 文政6年(1823年)奉行泉本忠篤に共同積立金出目銭を利用した学問所建設を願い出て、文政7年(1824年)9月許可され、文政8年(1825年)8月8日現佐渡版画村美術館地に学問所・武術所・医学所を開校した。 文政8年(1825年)8月孔子廟併設を願い出て、文政9年(1826年)5月起工、文政10年(1827年)2月19日竣工した。文政11年(1828年)10月江戸から師述斎命名の「修教館」扁額、文政12年(1829年)4月18日孔子像が到着し、24日遷座式を行った。 天保5年(1834年)9月24日普請所からの大火で自宅や学問所も焼失したため、北沢家に仮寓し、10月役所の再建工事を監督した。
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