幼き帝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 12:57 UTC 版)
元永2年(1119年)5月28日に生まれ、6月19日に親王宣下を受ける。保安4年(1123年)1月28日に皇太子となり、同日、鳥羽天皇の譲位により践祚、2月19日に数え5歳(満3歳7か月)で即位した。大治4年(1129年)、関白・藤原忠通の長女である藤原聖子(皇嘉門院)が入内する。同年7月7日、白河法皇が亡くなり鳥羽上皇が院政を開始する。翌大治5年(1130年)、聖子は中宮に冊立された。天皇と聖子との夫婦仲は良好だったが子供は生まれず、保延6年(1140年)9月2日女房・兵衛佐局が天皇の第一皇子・重仁親王を産むと、聖子と忠通は不快感を抱いたという。保元の乱で忠通が崇徳上皇と重仁親王を敵視したのもこれが原因と推察される。一方、この件があった後も崇徳上皇と聖子は保元の乱まで常に一緒に行動しており、基本的には円満な夫婦関係が続いたとみられている。 院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛して、永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇に譲位を迫り、得子所生の体仁親王を即位させた(近衛天皇)。体仁親王は崇徳上皇の中宮・藤原聖子の養子となっており、崇徳天皇とも養子関係にあったと考えられるため、「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』『今鏡』)。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳上皇にとってこの譲位は大きな遺恨となった。崇徳上皇は鳥羽田中殿に移り、新院と呼ばれるようになった。
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