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平田正判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/22 14:18 UTC 版)

平田 正判
生誕 1891年2月11日
日本 島根県
死没 (1960-07-17) 1960年7月17日(69歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1913年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
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平田 正判(ひらた まさちか、1891年明治24年)2月11日[1] - 1960年昭和35年)7月17日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級[2]

経歴

1891年(明治24年)に島根県で生まれた[1]陸軍士官学校第25期、陸軍大学校第34期卒業[1]。アメリカ駐在を経て[2]1936年(昭和11年)8月1日陸軍歩兵大佐進級と同時に駐米武官に着任[2]1938年(昭和13年)4月8日参謀本部附を経て[2]7月15日台湾歩兵第2連隊長に就任し[2]日中戦争に出動[1]

1939年(昭和14年)3月9日に陸軍少将進級と同時に陸軍習志野学校幹事に就任[1][2]。同年9月30日北支那方面軍参謀副長に転じ[1]1941年(昭和16年)3月1日には陸軍公主嶺学校幹事に着任[1]11月6日には陸軍中将に進級し[2]、第61独立歩兵団長(東部軍)に就任[1]1942年(昭和17年)8月に東部軍司令部附を経て[1]1943年(昭和18年)3月1日留守第51師団長に就任[1]1944年(昭和19年)1月7日第22師団長(第23軍)に親補され[1]、中国戦線に復帰[1]大陸打通作戦に参加し[1]南寧から仏印に侵攻した[1]。その後、第18方面軍隷下に編入され[1]、終戦時はバンコクに位置した[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[3]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 福川 2001, 616頁.
  2. ^ a b c d e f g 外山 1981, 329頁.
  3. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」21頁。

参考文献

  • 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738 
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。 ISBN 4829500026 



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